ギレルモ・デル・トロ監督によるピノッキオの
翻案、ミュージカル・ファンタジー・ストップモーションアニメ映画の感想です
原作はこちら
<あらすじ>
第一次大戦下のイタリア、木彫り職人のゼペット
は息子のカルロを爆弾投下で失って
しまい、悲しみにくれる
カルロの墓のそばに松の木を植え20年の時が経つ
ゼペットはその松の木から人形をつくる
翌日その人形は木の精霊から命を与えられ
「ピノッキオ」という名付けられる
<感想>
視聴前の印象というか想定していた
事は、「ギレルモ・デル・トロが「ピノッキオ」作ったんだ
多分生半可な物ではないだろうな」と、若干
怖いというか構えて視聴しました
そしてその予感は的中しましたね
私にとっての「ピノッキオ」は
詳しくは覚えていませんが、最後モックは
自己犠牲的な行動をすることにより
人間になるという終わり方だったと記憶しています
デルトロのピノッキオも人間になるんですけど
さらにその先を描くんですよね
カルロ・コッローディ原作の「ピノッキオの冒険」は
政治風刺がメインで、デルトロ版もそういう場面は
出て来ます(カーニバルの巡業でムッソリーニを茶化すくだりは草でしたね)
が、あくまでも主題は違っていて
ひとつは「父と子」もうひとつは「生きるということ」
ゼペットはピノッキオに、カルロの様になって
欲しいと思っていて(ピノッキオとカルロのキャストが
同じグレゴリー・マンという人が担当しているのも、明らかに
意図があってそうしてますよね)
ゼペットは「なんでカルロの様に振舞ってくれないんだ!」と
怒りますがピノッキオは「僕はカルロじゃないよ、ピノッキオだよ」
と返す、ここはピノッキオがカルロの代わりとして
「疎外」されているんですよね
ここ、息子のカルロがカルロ・コッローディの原作であることも指していて
「僕はカルロじゃない」っていうのは「この映画は原作とは違いますよ」
っていう告知なんですね
戦争という「巨大な死」を背景に物語は進行し
劇中二つの「父親殺し」が出て来ます
ひとつはキャンドルウィック親子で
キャンドルウィックは間接的にですが、結果として父親を殺してしまう
もうひとつはヴォルペ伯爵とスパッツァトゥーラ
で、この2組はコミュニケーション不足により
和解にいたらなかった結果を示していて
ゼペットとピノッキオはコミュニケーションを
取った結果、ゼペットはピノッキオを
「カルロの代わり」では無く「ピノッキオ」として
愛し、本当の意味での親子になる
そして、ピノッキオは人間になり
ここでめでたしめでたしにしてもいいのに
終わりにならない
なぜならこれは「ギレルモ・デル・トロのピノッキオ」なので
ゼペットとピノッキオ、スパッツァトゥーラとこの映画の
ナレーションを務めるセバスチャン・J・クリケットは
共に生活し、時を経て一人また一人と天寿を全うする
(ここでセバスチャン・J・クリケットも最期を迎えるのに
まだナレーションしているw)
ここは「生きるっていうのは死ぬことでもあるんだよ、
だから生きているうちに最善をつくしてね」ってこと
劇中ピノッキオが何度も死んでは蘇り、最後に生き返らなくなる
という展開、私は「100万回生きたねこ」を思い出しましたね
「100万回生きたねこ」に出て来るとら猫は、100万回死んでは
生き返るを繰り返すんですけど
最後白猫と結ばれて子供を設け、子供たちは
独り立ちしたのち白猫が天寿をまっとうする
とら猫は白猫を失って悲しみ、二度と生き返る事は
無かったというお話
とら猫が生き返る事が無くなったのは
白猫と結ばれて「本当に生きた」から
最後、ピノッキオが旅経ってその後どうなったのか
をはっきりと話しませんが、もちろん
彼もやがては最期を迎えるでしょう
松ぼっくりの様に
「生命だから」
スタッフロールで、死後のセバスチャン・J・クリケット
が踊りながらもう一度歌でメッセージを届ける
ここらへん、なんか「未来惑星ザルドス」を思い出しますね
この映画の内容は「ディストピア観念SF」で
エターナルズっていう不老不死の人と
死のあるブルータルズ別れた世界が舞台で
エターナルズは死なないので、幸せなのかと
思うんだけどそうじゃなくて生き続ける事は
苦しみで、ブルータルズの一人によって
不老不死者の世界は破壊され「死ぬことが出来る」
その後ブルータルズの一人はエターナルズの女を
連れて家族を作って子供を産み、育て、老いて
死んでいき、骨になるんですけど、それは
「良い事なんだよ」っていう表現をして終了するんです
それと、ピノッキオは終始ほぼ
服を着ていなくて、カーニバルのシーンで
帽子を着るくらいで、ここは余計な物を
取り払う事で観ている人に本質を伝えようとしているんですね
年齢制限が「7+」って表示されているのも
うなずけるというか、子供向けに作っているようで
作っていないというか、表現に容赦がなくて
それ故に誠実さを感じますね
<なんでアニメで表現したのか>
監督のギレルモ・デル・トロは
実写でもう何本も映画を作っているのに
実写にはせず、今回15年(!)の歳月をかけて
アニメーションで表現したのかは明白で
アニメーションの語源が、ラテン語の霊魂を意味する
「アニマ」に由来しており、「生命の無い動かない物に意味を
与えて動かす」事を意味しているから、この作品を
アニメーションで表現するのは必然なんですね
正直、私は「ピノッキオ」というコンテンツをなめてましたね(^^ゞ
調べてみるとアニメ、映画やミュージカルと
いろんな形で表現されてきたのは、この作品に
それだけ大切な要素が詰まっているから
ネットフリックスを利用しているなら視聴はマスト!
おススメです\(^o^)/