一見ハッピーエンドっぽい
結末の後に込められた、本当のテーマを書いてみました
今回はあらすじ無しのネタバレ有りです
監督:ピーター・ウィアー(「刑事ジョン・ブック」、「いまを生きる」)
脚本:アンドリュー・ニコル(「ガタカ」)
OP、男のインタビューらしき映像からスタート
が「鏡に向かって語りかける」というメタな始まり
右下に「LIVE」の文字が表示されている
が何かのインタビューに答えるシーン
この映画の初見だと「?」と観客の頭に浮かぶクエスチョンマーク
トゥルーマンの日常描写、時々
画面の四隅が黒くぼやけていて
ここでも頭に「?」が浮かぶでしょう
映画開始から30分くらいまでは
トゥルーマンの視点から彼の日常が進行していき
トゥルーマンが妻と結婚した時の写真で
妻が指をクロスしている(「神に懺悔している」、ちなみにググると
一発で出て来ますw)のを発見して
「あれ、この世界おかしくね?」と思って
トゥルーマンはこの島(シーヘヴン)を出て「フィジー」に行こうと
しますが、何故か事あるごとに邪魔が入ります
そして中盤過ぎに、死んだ筈の父親に再会
するシーンから月の中のスタジオに
場面が移って、この世界が大掛かりな24時間の
リアリティーショーで、
トゥルーマンは生まれた時から人生を見世物に
されていた事が明かされます
OPの男はリアリティーショー「トゥルーマン・ショー」の
番組プロデューサーだったんですね
妻「役」のメリル(映画内での俳優名はハンナ・ジル)
がインタビューに答えていた謎もここで判明する
妻も友人のマーロン(ノア・エメリッヒ、番組内での
俳優名はルイス・コルトランで紛らわしい)も、シーヘブンの島民も
全部キャストで、彼を監視していて全部嘘だった!😱
この映画のおかげ(?)で「トゥルーマン・ショー妄想」って
言葉が生まれたみたいですね
「トゥルーマン・ショー」という番組を「トゥルーマン・ショー」という
映画にして見せているという二重構造
トゥルーマンが島を出て行かないように
過去に父親を演出上溺死させ(キャストは生存)
あちこちに島を出る事は危険だと、ここが一番だぞと
すり込まれていて
クリストフはトゥルーマンを自分の本当の息子の様に
思っている(画面に映ったトゥルーマンを撫でてますからね)が
それは愛玩動物を撫でる様な歪んだ愛情で、今でいう彼の人生を
全て支配しようとする毒親
DVDのヴァージョンにもよりますが、ジャケットが
眠っているトゥルーマンなんですよ
彼がシーヘブンで生きている人生は、眠っているのと
同じで、回転扉が強調されるのは彼が島にいる限り、死ぬまで無限ループに
ハマっているという演出で、自分が居る世界の異変に気づき「目覚めて」
この監視社会から脱出する話なんです
トゥルーマンは隙を見て、恐れていた海を、嵐を乗り越えて
番組プロデューサーのクリストフ(エド・ハリス)が
「天の声」の様に、自分が安心したい為に子供を支配して
自分の元に留めようとする毒親の様に語り掛けるも
トゥルーマンは拒絶して「父親」の支配から逃れ、
島の外に出てハッピーエンド
世界各国の視聴者も結末に大喜びでめでたしめでたし
でも、ここまでは本当に言いたかったテーマの前振りです
いちばん最後に写る警備員達が「番組表は?チャンネル変えろよ」
のセリフが、実はこの映画のテーマを物語っていて
どんなに感動する物語でも、それは商品として
消費されていってしまう「大量消費社会の風刺」がテーマだったんです
劇中、ところどころに不自然な商品の説明が入るのは
スポンサー無しでは番組が成り立たないから
たとえ高視聴率でも番組のスポンサーが
次々と降りた為に「トゥルーマンショー」は終了する
だって、結末がハッピーエンドであるなら
スタッフロールで流れるBGMが明るい筈なのに
不穏な調子なのはそういう事です
そして、こういうおぞましい番組を作りだしたのは
このトゥルーマンショーみたいな
番組のおぞましさを自覚せずに消費していく
視聴者こそが問題なんだよって事が言いたかったんですよね
人の人生を覗き込んで無自覚に消費する事のおぞましさは
ドキュメンタリーを撮影することのおぞましさでもあって
あるドキュメンタリー作家が
ドキュメンタリー作家の資質として「人でなしであること」
とインタビューで答えていた事があって、それは観る事で
観客も加担しているという事
SNSが世界を覆っている今ならいったい
どんな映画になっていたんでしょうね
もしかしてもう誰か作ってますかね?
まあブログで毎日映画やドラマ
漫画やアニメを消費している
私には耳の痛い内容なんですけどね😅